知識のブラックホール

知識収集活動全般。

合理性と効率化のその先へ(書評:『東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない』)

去年あたりに話題になっていた(と思う)本。

東大の大学院を中退してプロのゲーマー(!!)になったという「ときど」こと谷口 一氏の半生を綴った本。

内容について

どう見ても著者と同年代です。大学院でやる気をロストしているという点は共通。

目次を紹介しておくと、以下のようになる。

序章 職業、ゲーマー
第1章 空気は読めなかったがゲームはうまかった日々
第2章 東大で研究に没頭、そして転落
第3章 大学院を辞め、プロゲーマーになる
第4章 プロ以降 ——情熱は論理に勝る
終章 いい人だけが勝てる世界がある


大雑把に説明すると、序章は著者の大まかな生い立ちと現状、1章〜2章が詳細な経歴。3章あたりからが武勇伝と、ゲーマーとしての葛藤と克服。

最初はまさに受験秀才という感じで、勝ちパターン(=公式)を見つけ出したらそれをとことん反復するというタイプ。そこから、勝ちパターンの通用しない相手への対処法(臨機応変に対処すること)、何をしてくるかわからない相手などとの遭遇を通じて人間としても技能面でも成長していったという感じ。

ゲームは詳しくないので勘違いしているかもしれませんが、最初は合理性の権化だった筆者が、徐々に価値観の変遷というか、自分の殻を破っていく過程は非常に面白い。

論理だの効率だのと書いている「ときど」氏ですが、勝ちパターンを確立した後はひたすら反復練習というあたりは、信じらえないほど泥臭い。

ある意味では要領の良さで世を渡る受験秀才とは次元が違う。

面白いと思ったところ

第2章より

僕はもともと、Sさんの情熱に当てられて研究に没頭しはじめた。Sさんという火の元がなくなれば、僕の情熱が消える。
(中略)
じゃあ自分が夢中でやれよと思うだろうが、そのとき僕は、自分で自分に火を灯せるような状態ではなかった。新しい火の元もなく、僕は自分に火をつけることができなかった。

京セラの創業者、稲盛和夫氏の自燃性、可燃性、不燃性という話を思い出した。 自燃性というのは、自ら情熱を持って物事に取り組み、周囲を感化していく人。 可燃性というのは、この場合、誰かの情熱に共鳴して物事に取り組む人。最後の不燃性というのは、人のやることを批判したり、他人の情熱を奪う人のことを言う。

研究者という観点では「ときど」氏は可燃性タイプの人間だったのか。 ……自分も可燃性だな、昔はともかく今はそう。

第3章より

僕の合理性は、僕の情熱が生み出したものだった。情熱から生まれた合理性こそが、僕を成功や達成感に導いてきた。だから僕は自分が情熱を燃やせる仕事を選んだ。情熱を持って仕事をしている人間がいる世界を選んだ。

いい決意。今の日本社会にかけているのはこういう発想。

今の自分に情熱を燃やす対象はないけどね。

第4章より

プロとしての心構え

では、プロとアマチュアの違いは何か。それは、「業界の発展をどれだけ考えられるか」ということだと思う。

これは素晴らしい発想だと思う。果たして今のプロスポーツ選手にこう言う考え方の人間がどれだけいるだろうか。

例えば業界の発展を考えている経営者と、目先の利益だけを考える経営者。 プロと言えるのは前者でしょう。スポーツや将棋などの競技選手に限らず、経営者に置き換えても通用するような気がします。

ごり押し戦術

僕の戦い方は、言ってみれば、「ひとつの絶対的な勝ちパターンを編み出して、それを相手に押し付ける」ものだった。過去の僕は、このやり方で勝ち星を積み重ねてきた。それだけ強力な公式だったわけで、大多数のプレイヤー相手なら、この戦法でまず圧勝できた。

相手に押し付けるという発想は新鮮。マジック・ザ・ギャザリングというカードゲームをやってた頃の自分と似てる。自分の場合はいわゆる緑単速攻、ストンピィというタイプ。速攻ごり押しで相手のライフを削るというやつ。コストパフォーマンスのいいカード、攻撃を補佐する特殊カード*1の組み合わせを追求するという。

駆け引きもなしの力押し。ちなみに長引くとすごい不利。そして相手と観客はちっとも楽しくない。

なるほど、Aという技にはBという技で返すと有効だ——そう発見したら100年目、ほかのことに見向きもせずに練習するが、そのBという技が返されたらどうしようとは、まったく想像すらしない。

うん、自分と似てる。思考の底の浅さ、と言えばいいのか。一種の早とちりとも言える。

成功者は自分のやり方に固執して失敗する、という話?

勝っている限り、自分のやり方に固執する。うまくいっているのだから、それ以上の改善は要らない。試行錯誤が止まる。そして、いざ自分のやり方が通用しないとなると、混乱して慌てふためくのだ。

このあたりは私も同じ。正解(またはそれらしきもの)を見つけるとそこで思考停止というか、満足してしまいがち。

相手は人間

予選で勝った相手に、それも同じ日の決勝トーナメントで負けた話から。

やはり受験とゲームは、違ったのである。タスク処理能力だけでは、人間には勝てない。格ゲーは、人間対人間の勝負ごとだ。レベルが上がれば上がるほど、公式が通用するような、定型的なものからは逸脱していく。より複雑で、より予測がつかないものになる。マシンでは勝てない世界になっていく。

特定のパターンをプログラムされたコンピューターと、即座に修正・対応できる人間の差。 操作の正確さを突き詰めていくと、臨機応変に対応できるかが問われるというのは興味深い。

最短ルートか、それとも

勝ちたいあまり、勝ちに直結するような選択肢ばかりを探そうとしていた。しかし、勝ちに即つながらない選択肢のなかにも、強さの理由は隠れているのだと、僕は学んでいった。

一言でいうと、迂直の計かな。最短ルートを突っ走ろうとすれば相手には見え見えの一手になってしまう。あえて遠回りするふりをして油断させる、あるいは自分に都合の良い状況を作り出す。

よく考えると、受験にはそういう思考訓練の要素はあまりない。とすると、東大に合格するほどの人間であると、駆け引きより最短ルートまっしぐらという方向性になるのも無理なしか。

感想

ゲームと私と

実を言うと、私はテレビゲーム禁止の家庭で育っています。ゲーム自体は親に隠れてゲームボーイポケモンをプレイしたり、友人宅で多少はやったことがあるぐらいです。 高専の寮で多少はやったりもしたけど。

要するにゲームは苦手ですし、好きじゃないです。だってボロ負けですから。家にないものはどうしようもない。例えるなら、いつもバスケットボールをしている子供相手に ドリブルすらマトモにできない子供を対戦させたらどうなりますか*2

まともに勝負になリません。基礎的な動作ができていないわけだから。

反復練習の時間さえ与えられない限り、改善はしません。そういう点においてはゲームも運動も同じですね。 私はテレビゲームで相手に勝ちたいと本気で思ったことはないです。なぜかはわかりません。

学校の勉強はできましたからあまり悔しいと思わなかったのでしょう。 根本的に負けん気、つまり勝利への情熱みたいなもがなかったんですね。

まとめ

本書の内容とは外れますが、よく経営者が好むキーワードとして、ヒト・モノ・カネというものがあります。 インタビューなんかでも「この3つのどれか最も重要だと思われますか?」という質問があったりします。

本書を読んでみて、私の答えはこのいずれでもなく、情熱であると思いました。

情熱がなければ困難に打ち勝とうと思わない、つまり、やる気が湧かないでしょう。

本書の要点は、ゲームで相手に勝ちたいという情熱が論理的な思考や徹底的な反復練習につながった、というものです。 合理性と泥臭さの同居、そしてそれを支える勝ちたいという情熱、その辺りが成功の鍵だったのかなと思いました。


それでは。

*1:怨恨とか樫の力とか

*2:私はバスケットボールのドリブル自体できません。なぜなら体育の授業というのは、ドリブルのできない子がいても試合形式に切り替わってしまい運動の苦手な子は置いてけぼりにしてしまうからです。

広告