『プログラミングの心理学』をコツコツと読み進める試み その3
昨日の続き。
『第3章 プログラミングの研究方法』についての読書メモ
この章はプログラミングについての人間心理や行動をいかに研究すべきか、という話題。プログラミングそのものを研究しよう、というのは少し違う。
内観、観察、etc.
コンパイラのエラーメッセージのわかりやすさについて言及しているあたりは、現在でも通用する。
『観察』
観察者と観察対象の干渉が問題になるのは、もちろん産業心理学だけではない。人の行動を研究するすべての科学において、そういうことが起こる。
お説ごもっとも。
『実験』
ある人物がこんなことを言った。「心理学とは、十八歳、大学一年生の心理学なり。」 つまり、被験者の典型的供給源は、大学の一年生向き心理学科目だ、というのだ。
なかなか厳しいトコロをついている。
人を適当に集めてきて、一つの課題を与えてみたところでチームはできはしない。 それはオールスターゲームのだらけた試合運びを見れば分かるとおりである。
大学で成績のよい人間を集めた組織がどうなるか。日本のプロ野球でいえば巨人軍か。
一般企業において、会社の都合で寄せ集められた人間で構成されたチームについても言えることか。
そういう意味では、経営者にこそ読んでほしい。
『心理学的測定』
多分マクスウェルがいおうとしたのは、「測り方を知るということは知るということだ」とか、またはさらにいえば「何を測ったらいいかを知ることこそ知るということだ」とか言ったことだったのだろうと思われる。
後半の「知るということ」を「理解すること」に置き換えたほうがしっくり来る気がします。
『行動科学のデータを借りる』
だがプログラミングには「正解」などありはしない。
学校の試験問題ではないしね。
バートランド・ラッセルが指摘しているように、信条とは証拠のない何かを信ずることをいう。 そして神話とは、アンブローズ・ピアーズがかって定義したところによれば、他の人々のの神聖な信条いう。
なかなか含蓄に富む文章。
『まとめ』
研究における手法について想定される失敗について云々。
この章の設問に有用性は感じられないので省略。
『第3章 「プログラミングの研究方法」へのコメント』
観察されているという事実が、しばしば人々を成績向上に向けて動機づける、という現象
こういった経験を通じて、私は管理の心理学に関する一つの基本原理を発見した。それは「人々に注意を向ける管理者はよい結果を得る」というものだった。
これはなんとなく理解できる。なんの本だったか忘れてしまったが、「男性は女性の前ではみっともない行動ができなくなる」という記述があった。 他人の目があるとみっともない行動がしずらい、というケースはかなりあると思う。
また、プログラムのコードレビューがある場合、みっともないコードは素直に恥ずかしいとか、馬鹿にされたくないという感情から手抜きコードが現象するというのはその通り。
私が所属していたSIerでは、グループ会社に任せきりの部分がかなり存在したが、そういった下請け任せで親会社のチェックが入っていないモジュールの質はかなりひどかった。本社のチェックが入る場合も、せいぜい係長クラスが関の山であり、不具合の隠蔽や手抜き作業はいつものことだった。
「他人の目」という文脈から少し外れると、複数の事業所を抱える企業の場合、役員クラスがほとんど顔を出さない事業所の士気が低く、 従業員満足度が低かった事例もある(というか、そういう事業所を経験した)。
特に知名度の高い人物、要は影響力の高い人物の視線というのは、他人の行動にかなり影響すると思われる。
たとえ研究が重要で、注目に値したとしても、研究者はそれをふさわしい形で人に伝えなければならない。
さすがに著名な研究者(どちらかというとコンサルタントか)は考え方が違う。
性懲りも無く続きます。今日はここまで。